記憶の底のツェルニー
40年ぶり再開ピアノで、かつて弾いていた楽器も楽譜もとっくになしの状態からスタート、でやってマス。
前回レッスンで「ソナチネアルバムの数曲をやった」という記憶はあるものの、先生に「憶えている曲ありますか?」ときかれ、鍵盤をいくつかさわってみたものの、ワンフレーズすらまったく再現できず(笑)
ワンフレーズいいすぎ。ひとつの音すら、でした(´・ω・`)
な~んも憶えてない!てのに限りなく近い、というのが正しそう(´・ω・`)
で、今やってる教本が「チェルニー やさしい20の練習曲」副題が「30番練習曲集」の前に、ってなってまして、巻頭のほうに著者(編者)の先生がいうには
ピアノ入門段階を終えて、《チェルニー30番練習曲》に入るための練習曲集です。
で、この段階の練習曲集はたくさんあって(ありすぎで)、しかも一冊の曲数も多くて(多すぎで)、しかも30番にはいる前には難しすぎる練習曲もふくまれていて、非効率なために学習者も指導者も挫折しがち。とにかく入門修了者を30番につなげるために必要な練習のエッセンスを厳選、曲順だけでなく音楽性も配慮し、これをやれば30番に無理なく進める!20の練習曲です。
といってます。
おそらく研究に研究を重ねた渾身のスペシャル厳選曲集と思われます。
曲集を編んだ先生、そしてこの教本を選んだ先生、ありがとうございます!
・・・・と感謝の気持ちもこめて、練習してるのです。(真実です)
て~のは前置きで。
ソナチネアルバムに載っているそれぞれに印象的な曲すら思い出せないへっぽこ記憶しかない私、なのですが~。なのでやってたはずのツェルニーの教本がなんだったかすら全然思い出せないんですね。バイエル教本もやったのはやったけど、内容や曲は全然憶えてない。ぶんぶんぶん、という曲だけはなんだか憶えてる。のは詞がついていて歌っていたからだと思われます。
楽譜(本)もと~っくになくなってるので、見て思い出すということもなく。
ところがです。
厳選曲集(やさしい20のことね)をさらっていたら、ど~もなにか引っかかるものがあるのですわ。知ってるはずのない曲なのに、あれ?でもなにか・・・。あれ?
旋律も憶えはないし、指だってもちろん、何も憶えてない。初めての練習なのに?
いくつかの曲にこの「わけのわからないなにか」を感じました。
もちろん曲を覚えているわけじゃないし、さらっと弾ける、ということもありません。でも、どうしても「なにかある」感じ。
似たような音形を弾いた? でもどこで?
で、ふと、楽譜の右上の作品番号を見たら、
なんと。すべて同じでした。
C.Czerny,Op.139
そうです、百番練習曲です。
ああ、そうなのか。
むか~しすぎて、記憶も薄れて、自分のやった教本のタイトルが、百番だったのか百十番だったのか、まったく思い出せなかったけれど。
メロディーも憶えていない、楽譜を見てもわからない。
でも、弾いていたらなにかが、なんともいえないなにかが自分の中にあった。
記憶の底の、断片ですらなくなった、なにか。
ピアノ再開しなければ、そしてこの練習曲を弾かなければ、耳からメロディーを聞いただけではけして思い出せなかった、と思うなにか。
弾かなければ思い出せなかった、なにか。
何もかも忘れたはずで、まとまった記憶、意味のある記憶としては引き出すことすらできないなにかが、それでも私のなかに残っていたのです。
そしてそのなにかは、いまの私をどこかで形づくっているのです。
今なら言える、憶えてはいないけれど(笑)。
私がやったのは「百番練習曲」らしいです。らしい、としかいえないけれど(爆)
あ~すげえ。ピアノ弾くってすげえ。(他の楽器も同じだよ、きっとね)
演奏するって(ほどのことではないけど、ガキの練習だし)すげえ。
弾くってことは、これほど自分自身に染みつくように音楽に触れられるってことなんだ。そう、きっとそういうことなんだ。
弾くことは(演奏することは)聴くだけじゃ得られない、音楽に触れる何かがある、とは思っていたけれど、こういうことでもあるんだ。
形のない記憶、形のない「なにか」になって、私の一部になるんだ。
形のない記憶、という意味では引き出すことができないから意味がない、といえるのかもしれないけれど、それでも今回、偶然に掘り出してしまった(笑)
そうなんだ~、そうだったんだ。音楽はすでに私の一部なんだ。
記憶の底のツェルニーが、教えてくれたこと。
「音楽は私の一部になる、私を形づくる、ひっそりと」
うまく言葉にできなくて、なんだもどかしいのですが、一応今回はこれでアップ。
いつかもっときちんと言葉にして表現したいです。
読んでくださった方、ありがとうございました。
(言葉や文章の勉強もしたいなあw)