諦めなければ・・・?
諦めなければ夢がかなう、と躊躇なく言えるほどこの世が単純だと思うわけではないけれど、それでもどこかでまず、自分を信じることは必要だ。
最低限、必要だ。
私は子どものころ、非常に痩せていて体は小さく、学校の体育の時間は悪夢と思えるほどどんなに本気でがんばってもまったく問題外、だった。
握力が足らないので鉄棒にぶら下がって自分の体重を支えることもできなかった。
まあ、そういうことを列記するとキリがないのでやめる。
つまり、まったくもってその方面は苦手だったということ。
室内で折り紙を折ったり、絵を描いたり、本を読んだり。
そんなことが好きだった。外で元気に・・・なんてまったくガラじゃない。
数年前にどうしたことか不意に思い立ち、フルマラソンを走った。
もちろんいきなり走れるわけはない。少しずつ歩く距離を延ばして20km以上歩けるようになってからゆっくりと少しずつ走りだした。
走るという言葉にそぐわないほどの速度で。
それでも毎日走っていると、少しずつ走れるようになった。
走る、ということは息が切れて苦しいことだと思っていたが、そうではなかった。
呼吸器は体よりも、走ることに早く順応したので、無理をしなければ息は切れなかった。
それは走ってみなければわからないことだった。
(本などにはたしかに書いてあるのだが、実感としてわかったのは、やはり実際に走ってみたからだ)
なぜフルマラソンを走ろうとしたのか、実はよくわからない(笑)
実際に学校で(運動会のようなものだったと思う)2kmを走らされたことがあったが、二度と味わいたくない苦しさだった。よたよたととまりながら、なんとかたどり着いたゴールに、感動もくそもありはしなかった。拍手の声援を送られながらではあったが、正直それは励ましよりも監視と罵声のように感じたくらいだった。
そんな体験があるのに、10km以上を走り続けるなんて、悪夢としか思えない。そんなことができるとは到底信じられない。自分には絶対無理だ、とも思った。想像もできない距離、ありえない願望だった。
しかし走ろう、と思ったそのときはどこかで「もしかしたら、できるかもしれない」とも感じていた。
心の奥底でとてもひそかに「もしかしたら、できるかもしれない」と。
その頃も(今も)朝起きると、関節が痛い。立ち上がって一歩を踏み出すだけで痛い。朝が一番つらくて、時間がたてばそれほどでもなくなるのだが。それにしても一歩だってこの有様で、どうして40kmも走れるものか。
ほぼ毎日、走った。
いつのまにか5kmが楽になった。
体が軽く感じることは一度もなかったし、どこまでも走れそうだという「ランナーズハイ」は、私にはついぞ訪れることはなかった。
それでも、なにかにとり憑かれたように毎日走った。
早くは走れない。それほどの体力はない。ゆっくりと、でもそれなりに着実に距離を延ばせるようになっていった。
他人と競う必要はなかった。いつも自分とだけ向き合っていた。
ただ、走れることがうれしかった。5km走ることが、8km走ることが、地図でみたあの橋まで行って帰ってこれることが、ただただ走って海まで行けるのが。
自分がマラソンを走ることそのこと自体が、夢のようだった。
でも、現実だった。
他の人と一緒に(一緒に、だ)マラソンコースを走っている。
かつて子どものころ、けして級友たちの速度では走れなかったので、はるか後方を息を切らせながら、それでも追いつくことなどありえなかった。
それが、他の参加者と一緒に(すぐ横を痩せた若い男性も走っている、彼も精一杯の様子だ。さまざまの年齢の男女がすぐ近くを一緒に走っているのだ)同じゴールを目指して走っているのだ。
それだけのことが夢のような輝かしい現実だった。
ピアノ弾きたい。
(私が弾ける曲なんて・・・)
最近、走っていた自分をしばしば思い出す。(今は走っていない。おそらく5kmでも走り続けられないだろう)
ありえないと思っていたフルマラソンを何度も走った。
そう、ありえない。走れるはずなんてない。
でも走った。なぜか「走れる」と信じて(なぜ信じたのだろう)走ってしまった。
諦めなければ、ダメだと思わなければ、私にもピアノが弾けるだろうか?
「絶対に無理」だと思っていたあの曲も、あの曲も・・・?
無理だよ、いくらなんでも(42kmなんて走れない)(あの曲が弾けるはずがない)
でも、もしかしたら。もしかしたら。もしかしたら。