続 ときどき思うこと(大人ピアノというか、自分ピアノ)
幼い子どものようには、あるいは若い人のようには、期待できる将来の時間が絶対的に少ない、50を過ぎてからのイマサラピアノ。
本当のことをいえば、誰であっても未来のことはわからないので今という時間の大切さはおさな子であっても同じなのだろうが。それでもこの年齢になれば視界の端っこにどうしたって「限られた時間」がちらついて消えることはないんだわ。
「期待できる時間」というのは、まあそんな感じでざっくりしたものだけど(´・ω・`)
やはりというか必然的にというか、
目の前の時間、たとえば今日練習できる時間とか、次のレッスンまでにかけられる時間もフルタイムで仕事をしていればそれほどたっぷりとはとれないし、こちらもなかなか想定どおりにはいかない。
ただ、それについては若くても(幼くても)そういうことはままあること。
宿題に手間取ったとか、遊びすぎて疲れてしまったとかが理由であっても、ピアノにさわる時間が思うように取れないことはあると思う。
それでも、「期待値」として「ある」と予想される生涯のなかでピアノに触れることのできる「総時間」は、若ければそれだけたっぷりある(だろう)と想定されるが、シルバーエイジ(という表現はいかがなものかというのはさておき)からでは、それすら「限られたもの」あるいは「目減りしていくもの」のように捉えざるをえない。
だぁってね、意識はしっかりしてても、あちこちが痛ぇとか、ほかの予定がなくてピアノ弾きたいのに動けない(体さんが動いてくれない)とか、思っていたよりもピアノ弾けない気がするよ?
何が言いたいか、というとつまりはこゆこと。
「大人ピアノは将来より今!」
アラ、申し訳ないわ。すごいことになっちゃった。
でもそうなのよ~。
今は基礎固めの時期だからね、なんてことを理由に「納得のいかない」ピアノを弾いてる時間なんて、ないのよ!(極論)
あ、そうそうここ重要、
「納得のいかない」ピアノは弾きたくないわ!
それがたとえ「練習」でも、よ!
(´・ω・`)イヤですね~、わがままですね~、なんですかこれ?
私は山登りの趣味はないので、このたとえはもしかすると外れているかもしれないけれど。
富士山に登りたいの。登りたいのは富士山なの。ほかではないの。
今はまだ富士山には登れないから、いつか登るためにとりあえず訓練として四万十川のほとりを歩きましょう、四万十川のほとりはそれはそれは美しい景観のすばらしいところですし、そこを歩けば富士山に登るための体力がつきますよ。・・・みたいな?
でも怖いのよ、だって時間が足らないんだもの。
四万十川を歩いているうちに富士山に登らないうちに、私ははかなくなってしまうかもしれないの。四万十川は美しいし、それはそれでステキなのはわかるんだけど、わたしは富士山に登りたいの。
富士山のふもとからゆっくりでいいから、富士山の一部を踏みしめて歩きたいの・・・おそらく頂上まではたどり着くことはないとしても、富士山を登っているのだ、ということそのものが私を満たすような気がする・・・・。
私をふるいたたせる気がする。
私に喜びをもたらす気がする。
私に歩くことそのものへ力をもたらす気がする。
んだよねぇ・・・うまくいいあらわせないけれど・・・。
たとえ途中で離脱せざるをえなくなるとしても、富士山を歩いていた(登っていた)こと、少しでも上を目指して歩いていたことに自分を肯定しながら離脱できる・・・んじゃないかと。
富士山、とたとえたのはある特定の「難曲」のことではなくて、いってみれば「ピアノを弾くよろこび」そのもの、のようなこと。
あの曲を弾いてみたい、この曲を弾いてみたい、ということではなくて。
エレクトーンを習っていたとき、レッスンでたくさんのアレンジ譜をどんどん弾いていた。選曲もほぼ自由だったし、自分のレベルで弾けるアレンジは膨大にあって、流行の曲も色あせないうちに楽譜が出ていていくらでも限りなく「好きな曲をよりどりみどり」に弾いて楽しむことができた・・・
でも。
楽しいはずなのに何かが違っていた・・・んだよね。更新される楽器を買うことができない、という理由だけではなくて、つまらなくなってしまったのだ・・・。
いくら好きな曲をそれなりに次々と弾けても、何か満たされない・・・。
あれはどういうことなのだろう、まだ言葉にできないんだけどね。
けれどもピアノでまた同じことを繰り返すつもりはないので、そうならないためには・・って、どうしても考えてしまうんだよね。
いつか、じゃなくて「今」どうなのか?
もうちょっとではっきりできそうな気がしてる・・・・
さっきのたとえはつまりこんな感じなんだよね・・・
私を満たすような気がする。(生きている実感がある)
私をふるいたたせる気がする。(生きることに希望がある)
私に喜びをもたらす気がする。(生きる喜びを感じる)
私に歩くことそのものへ力をもたらす気がする。(生きる力をくれる気がする)