ピアノを弾くことと記憶
以前も同じようなことを書いているが、ピアノを弾いている(というか単なる練習ですが)と、思いもよらぬ些細な記憶がよみがえる。
回転式のピアノ椅子のフリンジの艶、ほつれ、手触り。
ピアノカバーの湿りけを含んだ重さ。
レッスンの帰り途に公園の噴水の横をスキップしながら通(とお)った花曇の日。
ほかにも本当に瑣末なあれこれ、ピアノとは直接関係ないようなさまざま。
半世紀近く、といえば人生のスパンからすれば十分古い、つかのまの記憶の断片。
ピアノを触らなければ忘れたままになっていたのだろうか。
(なっていたに違いない、とどこかで確信する)
神経回路がつながらないまま、でもどこかそこにはちゃんと記録されている不思議。
引き出されることがなければ、ないも同然の、無数の(おそらく億単位の数)で眠っている記憶たち。
※億なんて、ちっぽけな数なのかもしれないけど、人間にとってはもう無数、って感じなので、そう書いてしまった、なおさない。
宇宙の片隅で、私にしか価値のない記憶。
でも私には宝石のような記憶。
今のこの生活や感情や日々の何気ないひとこまも、ピアノを介して私の中に記録されているのだろうか。
私がこれから生き続け、ピアノを弾きつづけていくと、もしかしたらまたいつか唐突に、自分ではすっかり忘れたと思った頃に唐突によみがえるのだろうか。
たったそれだけのことでも、わたしにとってピアノを弾くことに、意味がないとは思えない。ありがとう、ピアノ。